ヘッダ画像1
ヘルプへ
データ更新日 2015 年 08 月 10 日   データ件数 1,717 件
ページ内容へジャンプ
→人名一覧表示
sp.gif
「人名一覧基盤システム」とは、統合検索システム(nihuINT)および国文学研究資料館・国立国語研究所において作成された人名情報をデータベース化したものです。現在のバージョンは、『古事類苑』の人名を基盤として作成しています。
この人名一覧は、人名及びいくつかのキーワードをもとにnihuINTで検索できるようにしています。nihuINTでの検索をより行いやすくするために作成しました。
また、RDF形式でのデータ提供による、歴史的人名知識情報の基盤となることを目指しています(現在も、簡易ではありますがRDFデータをコンピュータ上では認識できるようにしています)。したがって、人名の詳細な説明そのものを提供するものではなく、nihuINTへの入り口を含め、データベース同士を「結びつける」基盤情報の提供を主眼としています。なお、解説は芳賀矢一編『日本人名辞典』を利用しています。 今後、人名の数・データ・リンク等の情報を増やしていく予定です。

よみの前方一致から探す人名、よみ、解説の部分一致から探す
あ行か行さ行た行な行は行ま行や行ら行わ行
sp.gifSearch
表示件数  1 - 50 件目 (全 1717 件中)    1  2  3   >>
人名よみ解説
会田 安明あいだ やすあき数学家。最上流の祖。出羽最上の人。初名鈴木彦助安旦。字は子貫、自在亭と号す。通称算左衛門。江戸に出でて徒に教ふ。天元術に精し。文化十四年十月二十六日没す。年七十一。改精算法等数十部の著あり。
葵の前あおいのまえ建礼門院の婢。高倉天皇之を嬖幸し、寵後宮を傾く。宮中呼びて葵女御と曰ふ。
青木 昆陽あおき こんよう徳川幕府の儒者。名は敦書、字は厚甫、通称文蔵。延享中、評定所の儒者となり、後書物奉行に遷る。蕃薯考を著し、其の種子を諸州に配布す。当時和蘭の学未だ開けず。或は長崎に往きて訳官に質し、或は博く其の書に考へ、遂に粗了会するを得。明和六年十一月十二日没。年七十二。贈正四位。著、経済纂要、官職略記、昆陽漫録、長崎聞書、和蘭文字略考、和蘭語訳、和蘭貨幤考。
青砥 藤綱あおと ふじつな良吏。北条時頼の臣といふ。引付衆たり。廉潔剛直にして権貴を憚らず。
青山 延于あおやま えんう水戸の儒者。弘道舘総裁。字は子世。通称量介。雲竜、又拙斎と号す。皇朝史略の著あり。大日本史の神祇、礼義、輿服の三志、及び東藩文献志を撰す。天保十四年九月六日没。年六十八。
明石 志賀之助あかし しがのすけ寛永中の力士。下野国宇都宮の人、当時の名手丸山仁太夫と撲ひて勝つ。
赤染衛門あかぞめえもん女歌人。平兼盛の女、赤染時用に養はる。上東門院に仕へ、後大江匡衡に嫁す。拾遺、後拾遺、詞花、千載、新古今、新勅、続後撰、続古今、続拾遺、玉葉、続千載、続後拾遺、風雅、新千載、新拾遺、新後拾遺の作家。
赤松 青龍軒あかまつ せいりゅうけん軍談師。初め赤松青竜軒と称し、堺町に太平記を講ず。
赤松 教康あかまつ のりやす満祐の子。左馬頭。嘉吉元年六月二十四日父の命に依りて将軍足利義教を弑し、翌日誅せらる。
阿観あかん
明智 秀俊あけち ひでとし
明智 光秀あけち みつひで光綱の子。通称十兵衛。朝倉義景及び長岡藤孝に仕へ、永祿九年織田信長に属す。近江坂本十万石を食む。天正三年丹波に移る。事に依りて信長を恨み、同十年之を弑し、幾許もなく秀吉に破られて死す。
総角(遊女名)あげまき京都島原の娼妓。元和中?客助六と深く相馴る。陶要人といふ者、事を以て助六を恨み之を殺すに及び、総角助六の友、難波屋治助の力を藉りて遂に要人を刺殺す。
浅井 長政あさい ながまさ近江小谷の城主。久政の子。通称新九郎。備前守と称す。六角義賢及び斎藤竜興を破る。信長の妹を娶り、後事を以て之と絶ち、六角朝倉等と結ぶ。天正元年信長に攻められて自殺す。年二十九。
安積 艮斎あさか ごんさい儒者。通称祐助、名は重信。安藤親重の子。陸奥安積郡郡山の人。佐藤一斎及び林祭酒の門に遊ぶ。丹羽侯の文学、二本松藩学教授、昌平黌教授等を経て、万延元年十一月二十一日没す。年七十六。著、艮斎文略、仝詩略、論語艮註、等。
安積 澹泊あさか たんぱく水戸藩の儒。名は覚、字は子先、通称覚兵衛。老圃、常山、老牛居士と号す。朱舜水に学び、史館の総裁となる。元文二年没す。年八十二。著、烈祖成蹟、澹泊斎文集、朱文恭遺事、大日本史賛藪、神祖遺事。
朝倉 英林あさくら えいりん
朝倉 敏景あさくら としかげ斯波氏三老臣の一。通称弾正。左衛門尉。文明二年越前の守護となる。将軍義尚の命を奉じて甲斐八郎及び斯波氏の族を伐ちて之に克つ。尋いで髪を削りて宗雄居士と号し、英林寺と称す。久しからずして卒す。
浅野 長友あさの ながとも
浅野 長矩あさの ながのり赤穂の城主。内匠頭と称す。元祿十四年勅使藤源資廉等江戸に至る。長矩及び伊達宗春之が接待たり。吉良義央礼に嫺へるを以て人に驕る。皆贈賄して其の歓を取る。長矩硬直、阿諛を快しとせず。義央之を含みて罵る。長矩憤怒に勝へず、刀を揮ひて之を傷つく。死を賜ひ、その封を収む。年三十五。
浅原 為頼あさはら ためより一に朝原氏に作る。通称八郎。甲斐の人。膂力あり。衆を招きて盗をなす。正応三年夜其の二子と共に禁中に入りて帝を求む。自ら免れざることを知り、紫宸殿に割腹す。当時相伝へて曰くこれ上皇の嘱託に出づるなりと。
朝夷名 義秀あさひな よしひで
浅見 絅斎あさみ けいさい京都の儒者。名は安正。近江高島の人。初め医を業とし、高島順良と称す。後山崎闇斎の門に入りて儒となる。清貧苦学。母に事へて至孝。諸侯其の風を聞きて、見んと欲する者多く、太上天皇亦之を召見す。固辞して出でず。正徳元年十月没す。年六十。
足利 氏満あしかが うじみつ基氏の子。鎌倉管領たり。正平二十三年新田義宗及び脇屋義治等を破る。元中五年小山氏を滅し、応永五年没す。年四十。或は曰く四十二。
足利 成氏あしかが しげうじ古河城主。持氏の四子。鎌倉五代の管領。小字永寿。上杉顕定及び定正等と兵を搆ふること十一年、遂に和し、明応六年卒す。
足利 尊氏あしかが たかうじ室町第一代の将軍。貞氏の子。初名高氏、通称又太郎。元弘の乱、東軍に従ひて西上し、帰順して六波羅を滅す。建武二年北条時行を討ち、征夷将軍、関東管領と称し、鎌倉に拠りて叛く。敗れて九州に奔り、又大軍を率ゐて京に入り、光明院を擁立し、幕府を室町に開く。正平十三年薨ず。続後拾遺、風雅、新千載、新拾遺、新後拾遺、新千載、新続古今諸集の作家。
足利 直義あしかが ただよし尊氏の同母弟。初名高国、又忠義。延元元年兄と共に叛して京師を陥る。高師直及び師泰を除かんことを謀りて成らず。南朝に降る。六年尊氏と和す。諸将党を樹てしかば、自ら安んぜずして鎌倉に走る。尊氏に攻められて降り、明年暴に死す。年四十七。或は曰く尊氏に暗殺せらると。風雅、新千載、新拾遺、新後拾遺、新続古今諸集の作家。
足利 春王あしかが はるおう
足利 基氏あしかが もとうじ関東管領。尊氏の四子。幼名亀若丸。正平七年新田義興義治等を滅す。二十二年薨ず。年二十八。新千載、新拾遺、新後拾遺、新続古今諸集の作家。
足利 義昭あしかが よしあき足利十五代の将軍。義晴の子。義輝の弟。初め僧となりて覚慶といふ。後信長に逐はれ、毛利元就に依り、薙髪して昌出と号す。慶長二年大阪に薨ず。年六十一。
足利 義詮あしかが よしあきら足利二代の将軍。小字千寿王丸。尊氏の第三子。正平十三年襲職、二十二年薨ず。宝篋院と号す。風雅、新千載、新拾遺、新後拾遺諸集の作家。
足利 義量あしかが よしかず足利五代の将軍。義持の子。応永三十二年薨ず。年十九。
足利 義勝あしかが よしかつ義遠の男。孫三郎。
足利 義兼あしかが よしかね頼朝の臣。義康の子。通称三郎。遠江守たり。寿永三年範頼に属して平氏を討ち、文治五年頼朝に従ひて藤原泰衡を征す。後薙髪して義勝と号す。正治元年三月八日卒す。
足利 義澄あしかが よしずみ足利十一代の将軍。初名義通、又義高。義政の養子。政知の子。明応二年細川政元に擁立せらる。文亀五年足利義植、大内義興と共に大挙して京師に入りしかば、近江に走り、尋いで岳山に薨ず。年三十二。
足利 義稙あしかが よしたね
足利 義輝あしかが よしてる足利十三代の将軍。義晴の長子。本名義藤。小字菊童。弘治八年三好長慶及び松永久秀等に囲まれて自殺す。年三十。
足利 義教あしかが よしのり足利六代の将軍。義満の子。初め僧となりて義円と号す。髪を蓄へて義宣といひ、後義教と改む。永享十年足利持氏を滅す。嘉吉元年赤松満祐に弑せらる。普光院左大臣と称す。新続古今集の作家。
足利 義晴あしかが よしはる足利十二代の将軍。義澄の子。小字亀王丸。大永元年細川高国に迎へられて襲職す。天文十五年細川晴元の乱を避け、職を子義藤に譲り、十九年薨ず。
足利 義尚あしかが よしひさ足利九代の将軍。義政の子。本名義?。学を好む。義政初め子なく、弟義視を以て嗣とす。義尚生るるに及び、之を山名宗全に託す。因りて応仁の乱あり。文明五年襲職。長享元年六角高頼を近江に討ち、遂に陣中に薨ず。年二十五。
足利 義栄あしかが よしひで足利十四代の将軍。義冬の子。義稙の孫。永祿八年三好長縁に迎へられ、天文十一年将軍に拝す。織田信長の足利義昭を奉じて京師に入るや、阿波に走る。幾くもなくして暴に死す。或は云く、久秀に鴆殺せらると。
足利 義政あしかが よしまさ足利八代の将軍。初名義成。義教の二子。宝徳元年襲職。寛正元年左大臣に進む。応仁の大乱中、豪奢を極め、茗?を事とす。延徳二年薨ず。
足利 義満あしかが よしみつ足利三代の将軍。義詮の子。小字春王。正平二十三年襲職。元中九年吉野朝と媾和す。金閣寺を北山に起して奢侈を極め、好を明に通じ、其の封册を受く。応永十五年薨ず。鹿苑院と称す。新後拾遺集、新続古今集の作家。
足利 義持あしかが よしもち足利四代の将軍。義満の子。応永二年襲職。三十年子義量に譲り、正長元年薨ず。勝定院と号す。新続古今集の作家。
安島 帯刀あじま たてわき勤王家。水戸藩の家老。戸田忠之の子。信順に養はる。名は信立、初め弥次郎忠誨と称す。安政五年大番頭となる。藩主斉昭再び譴を蒙る。翌年八月二十七日職に在りて慎重を欠き、公武の不和を醸す罪を以て切腹を命ぜらる。年四十八。贈正四位。
明日香親王あすかしんのう桓武天皇の皇子。母は宮人紀若子。天長八年上野大守となり、承和二年二月薨ず。
阿直岐あちき阿直岐史の祖。百済の人。応神天皇十五年八月百済王の使者として来朝す。皇子菟道稚郎子の師たり。
敦明親王あつあきらしんのう名は敦明。三条天皇の長子。母は皇后娥子。長和五年太子に立ちしが、寛仁元年之を辞し、院号を賜りて小一条院といひ、上皇に准ぜらる。永承六年正月八日薨ず。年五十八。其の詠歌、後拾遺、金葉、詞花、玉葉諸集に出づ。
穴穂王子あなほのおうじ欽明天皇の皇子。母は皇妃堅塩媛。用明帝の朝、不軌を図り、後馬子に殺さる。
阿仏尼あぶつに女歌人。藤原為家の後妻。為相の母。初安嘉門院に仕へて四条又右衛門佐と称し、薙髪して阿仏と称す。世呼びて北林禅尼といふ。著す所、十六夜日記、夜鶴等あり。弘安年九月没す。続古今、続拾遺、新後撰、玉葉、続千載、続後拾遺、風雅、新千載、新拾遺、新後拾遺、新続古の作家。
1 - 50 件目 (全 1717 件中)    1  2  3   >>

フッタ画像

この「人名一覧」は人間文化研究機構が作成しています。
nihuINTへの検索ソースを除く、テキスト等のコンテンツ情報・RDFデータは、CC BY4.0にて提供します。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。
sp.gif
sp.gif
sp.gif